稽照殿について

上杉神社の由来

越後国(新潟県)守護代長尾家に誕生した長尾景虎(後の上杉謙信公)は、関東管領上杉家を相続した。長尾上杉氏の誕生である。

家祖謙信公の後継者となった甥の景勝公は、豊臣政権における五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)に列し、会津120万石を所領とした。しかし、関ヶ原の戦いの結果、米沢30万石で初代米沢藩主となり以来270年、米沢城は上杉氏を領主として、十三代藩主上杉茂憲公の時、明治維新を迎えた。

明治4年(西暦1871年)、謙信公の遺骸をおさめていた本丸内の御堂(みどう)を改め、上杉神社が創設され、謙信公と藩政改革に力を尽くした鷹山公が御祭神となった。

明治9年(西暦1876年)、米沢城本丸奥御殿跡に社殿が創建され、謙信公の遺骸は、御廟所に移された。

明治35年(西暦1901年)、上杉神社が別格官幣社(現在は廃止)になった際、御祭神は謙信公一柱となり、鷹山公を御祭神とする松岬神社が、大正元年(西暦1912年)、米沢城二の丸跡に建設された。松岬神社にはその後、景勝公、重臣の直江兼続公、鷹山公の学問の師、細井平洲、両腕として藩政改革に尽力した竹俣当綱と莅戸善政が合祀された

稽照殿(宝物殿) の由来

稽照殿(国の登録文化財)は、大正8年(西暦1919年9 の米沢大火後、大正12年(西暦1923年)、上杉神社の再建にあたり宝物殿として開館した。

「稽照」とは、 『古事記』の序文「稽古照今」 (古(いにしえ)を稽(かんが)え、今に照らす) に由来する。

謙信公、景勝公、鷹山公の遺品、遺墨を中心に甲胄、刀剣、武具、絵画、仏書画、仏具、陶磁器、漆器、服飾、文書、墨跡等多種多様で、国指定重要文文化財、重要美術品、山形県、米沢市指定文化財を含む多数の優品を収蔵している。

上杉神社と稽照殿の設計者は、明治時代の社寺建築の泰斗、文化勲章受章者で本市の名誉市民でもある建築家「伊東忠太(いとうちゅうた)」博士である。

羽前米沢-上杉神社

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